LOGIN「ようこそ、天界にある閻魔の間へ。長い生涯を終えられたこと、誠にご苦労さまでした」
静まり返っていた大広間の襖が音もなく開き、明るく澄んだ声が響いた。
龍之介が声のした方へ顔を向けると、一人の美少女が満面の笑みを浮かべながら部屋へ入ってきた。軽やかな足取りで畳の上を進んでくる姿からは、死者を裁く者のような威圧感などまるで感じられない。龍之介の目には、この見知らぬ場所を案内する水先案内人か、閻魔大王のもとで働く若い案内役にしか見えなかった。
もっとも、ニコニコと屈託なく笑う少女を眺めながら、龍之介の胸には少しばかり複雑な思いも湧いていた。
自分は先ほど死んだばかりなのに、随分と明るく迎えてくれるものだと思ったのである。百年を生きたことに悔いはなく、自らの死も受け入れてはいたが、長年連れ添った妻や、可愛がってきた孫や玄孫たちと永久の別れをしたばかりなのだから、そのような気持ちになるのも当然だった。
このころ現世では、龍之介の葬儀がすでに終わり、その遺体は荼毘に付されていた。家族に見送られながら、百年を生きた肉体は静かに役目を終えたのである。しかし、天界にいる龍之介が、そのことを知る由はなかった。
龍之介は気持ちを落ち着かせるように一度息を整えると、目の前まで歩いてきた美少女へ尋ねた。
「あの世の水先案内人ですか。それとも、これから閻魔大王様のところまで案内してくださる方でしょうか?」
「いいえ、案内人ではないわ。私が閻魔ちゃんよ」
少女は自分の胸へ手を当て、何でもないことのように答えた。
龍之介は思わず目を見開いた。目の前にいる少女を閻魔大王と呼ぶより、その微笑みを天使のようだと表現した方が、はるかにしっくりくる。
腰まで届く艶やかな黒髪は、歩くたびにさらさらと揺れ、身にまとっている鮮やかな着物には、燃えるように赤い曼珠沙華が描かれていた。その上から羽織っているものは陣羽織に似ており、黒と赤を基調とした色合いが、白い肌と長い黒髪をいっそう引き立てている。
年齢は、二十歳になったかどうかというところだろうか。背丈はやや低く、小柄な体つきと幼さの残る顔立ちのせいで、実際の年齢よりも若く見えた。
しかし、その頭には中央に大きく「閻」と記された、王冠のような装飾品が載せられている。片手には笏を持ち、服装だけを見れば、確かに閻魔大王を意識した姿であることは分かった。
それでも龍之介の目には、本物の閻魔大王というより、秋葉原の催しにでも現れそうな美少女コスプレイヤーにしか見えなかった。
「えっ、あなたが閻魔大王様なのですか。本当に? いやはや、これは私が想像していた姿とは随分違うものですね。まさか閻魔大王様が、あなたのような美少女だったとは……。まるでアニメの中から出てきたような、夢のような美少女ではありませんか」
「美少女と言ってもらえるのは嬉しいけれど、龍之介ちゃんも、閻魔大王といえば鬼のような恐ろしい顔をして、髭をもじゃもじゃ生やした大きなおじさんだと思っていたのでしょう?」
閻魔ちゃんは腰へ片手を当て、少し不満そうに唇を尖らせた。しかし、怒っているはずのその表情にも恐ろしさはなく、むしろ先ほどまでよりも愛らしく見えてしまう。
やはり、死者の罪を裁く閻魔大王という神様には到底見えない。怒った顔でさえ天使のように可愛らしいのだから、龍之介が困惑するのも無理はなかった。
とはいえ、龍之介が彼女に抱いた可愛いという感情は、若い女性へ向けるものではなかった。百歳まで生き、孫だけでなく玄孫にまで恵まれた龍之介にとっては、愛らしい孫娘を眺めるときの感覚に近かったのである。
「まあ、想像していたことは否定しません。子供のころから絵本や昔話で見てきた閻魔大王様は、たいてい大きな身体に真っ赤な顔、そして立派な髭を生やしていましたからな。あなたのような可愛らしい方が現れるとは、さすがに思っておりませんでした」
「でしょうね。でも、閻魔大王というのは個人の名前ではなく、天界での職業、つまり役職なのよ。私は今年から、たまたまその役職に配属されたの。ちなみに私は茨城県を担当する閻魔大王よ。そういえば、栃木県担当の閻魔大王は、龍之介ちゃんが想像していたような髭もじゃのおじさんだったはずね。群馬県担当は、たしかおばあちゃんだったはずよ」
「茨城県担当……。閻魔大王様にも、都道府県ごとの担当があるのですか」
あまりにも現世の役所じみた説明に、龍之介は何度か目を瞬かせた。しかし、だからといって、目の前の現実を頭から否定することはなかった。
龍之介は昔から柔軟な性格であり、若者文化、なかでも秋葉原を中心としたオタク文化については、孫たちを通じてかなり詳しく知っていた。それどころか、自分まで夢中になり、平成の剣豪という物々しい異名を持ちながら、深夜アニメやライトノベルを心から楽しむほどになっていた。
そのため、たとえ死後の世界が二次元の世界を思わせるものであろうと、ライトノベルに登場しそうな世界であろうと、龍之介は驚きながらも難なく受け入れることができた。
現世の人々が思い描く死後の世界観は、江戸時代のころに形作られたものだとも言われている。それならば、平成の世を経るうちに、死後の世界そのものが時代に合わせて進化していたとしても、何ら不思議ではない。
龍之介はそう考えて自分を納得させると、先ほどから気になっていたことを尋ねた。
「あの、質問してもよろしいでしょうか。今のお話を聞く限り、閻魔大王様は何人もいらっしゃるということですか。それから、私は三途の川を渡った記憶がないのですが、あの川は本当に存在するのでしょうか?」
「ああ、やっぱり龍之介ちゃんには、ここへ来るまでの記憶がないのね。死んだ直後は、その衝撃で放心状態になっている人がほとんどだから、何も覚えていないうちに渡ってしまうのよ」
閻魔ちゃんは慣れた様子でうなずくと、笏を胸の前で持ち直しながら説明を続けた。
「三途の川は、利根川にあるような渡し船に乗って渡ったの。ちゃんと介助者がいるから、死んだばかりで放心状態になっていても船へ乗せてもらえるのよ。それから、さっきも言ったとおり、閻魔大王は天界にある役職の一つよ。もし閻魔大王が一人しかいなかったら、その一人で一日にどれだけの死者へ対応しなければならないと思うの? そんなもの、無理に決まっているでしょう」
「言われてみれば、そのとおりですな。人は毎日、世界中で亡くなっているのですから、一人で対応できるはずがありません」
「そういうことよ。三百六十五日、二十四時間、休みなく死者の対応を続けるなんて、現世で流行しているブラック企業よりもひどいじゃない。私だって眠りたいし、食事もしたいし、たまには仕事を忘れてゆっくり休みたいわよ。閻魔大王が過労で死んでしまったら、シャレにならないでしょう?」
閻魔ちゃんは心底嫌そうに眉を寄せた。その表情から察するに、どうやら天界にも勤務時間や休暇という概念があるらしい。
龍之介は顎へ手を添え、何度もうなずいた。
「なるほど、なるほど。それはそうですよね。ブラック天界などというものがあったら、働いている者にとっては、それこそ地獄になってしまいます。閻魔大王様が何人もいらっしゃる理由も、私が三途の川を渡った記憶もないまま、いきなりこの部屋に立っていた理由も、これで納得できました」
「たまに若い人なんかが、生死の境をさまよっているとき、死後の世界を少しだけのぞいてしまうことはあるけれどね。そういう人が現世へ生還したあと、自分が見たものを周りへ話すでしょう。その話が人づてに広がっていくから、三途の川やお花畑のことが、生きている人たちにも知られるようになったのよ」
「なるほど。では、私のように眠るように死んだ者は、自分でも気づかないうちに船へ乗せられ、三途の川を渡ってしまうのですね」
「そんなものなのよ。それから、三途の川を渡るために必要だと言われている六文銭も、今となっては昔の話ね。今はキャッシュレスどころか、無料よ、無料。誰でも平等に渡し船へ乗れるの。もっとも、たまに船へ乗らず、自分で泳いで渡ってしまう元気な死人もいるのだけれどね」
「死んだあとに川を泳いで渡るとは、随分元気な死人もいたものですな」
「本当にそうよ。それに、『地獄の沙汰も金次第』という言葉も嘘よ。現世で使っていたお金が、そのまま天界で使えるわけがないでしょう? それに、お金を受け取って裁きの結果を変えていたら、平等に死者を裁かなければならない閻魔大王が、不正の温床になってしまうじゃない。天界で賄賂が横行するようになったら、それこそ大問題よ」
閻魔ちゃんは呆れたように肩をすくめた。
「私も昔から、それは不思議に思っていたのですよ。現世でどれほど財産を持っていたとしても、死んでしまえば持ってこられるはずがありませんからな。それなのに、なぜ地獄の沙汰が金次第なのかと疑問に思っておりましたが、これでまた一つ納得できました。死んだあとでさえ、新しく学べることがあるとは驚きです」
「納得するというより、受け入れるのが早すぎるわよ、龍之介ちゃんは。この部屋まで来てから、自分はまだ死んでいない、生き返らせろと駄々をこねる死者もいるのよ。それに比べたら、龍之介ちゃんのように聞き分けのいい死者は好きよ。私、大好き」
閻魔ちゃんは楽しそうに笑い、手にしていた笏を小さく振った。
その姿には、死者を厳しく裁く恐ろしい神の威厳など欠片もない。何とも気さくで、ラフで、ざっくばらんな閻魔大王だった。
龍之介が長い人生の中で思い描いてきた閻魔大王の姿とは、あまりにもかけ離れている。しかし、不思議なことに、話しているうちに、この明るく愛らしい閻魔ちゃんこそが自分を迎えた閻魔大王なのだと、少しずつ納得できるようになっていた。
織田信長の娘である歩美姫と、正二位左大臣に任じられたばかりの三上龍之介正圀との祝言は、驚くほど急に執り行われることとなった。 本来であれば、織田家と三上家、さらには朝廷にも深く関わる縁組である。相応の時間をかけて支度を整え、諸国の大名や公家を招いた盛大な祝言となるはずだった。しかし、信長は関白兼征夷大将軍として毛利攻めを進めるため、近いうちに中国地方へ遠征しなければならない。ひとたび京を離れれば、しばらく戻れなくなる可能性もあった。 そのため、まずは両家の身内だけで仮祝言を挙げ、正式な披露については天下の情勢が落ち着いてから改めて行うことになったのである。 安土から急ぎ京へ呼び出された歩美は、父である信長から縁談を告げられた時、さすがに困惑を隠せなかった。「父上、私が三上様へ嫁ぐというお話は、本当に決まったことなのでございますか。せめて、もう少し前にお聞かせくださってもよかったのではありませんか」「前もって話しておれば、そなたは余計なことを考え、眠れぬ夜を幾晩も過ごしたであろう。決まったことを長々と悩ませるより、早く伝えて早く嫁がせたほうがよい」「そのような理屈で納得できる娘が、世の中にどれほどいるとお考えなのですか。父上は戦の支度も娘の祝言も、同じようにお考えなのですね」 歩美が呆れた顔を見せても、信長は悪びれる様子を見せなかった。「相手が気に入らぬというなら話は別だが、三上龍之介殿は帝の御子にして正二位左大臣、剣術にも優れ、何より天下の行く末を見通す目を持っておる。あれほどの男を婿にできる機会など、二度と巡ってはこぬぞ」「私は、まだ三上様のお顔すら、まともに拝見したことがございません」「ならば祝言の後、飽きるほど見ればよい。龍之介殿は朴念仁ではあるが、女子を粗末に扱うような男ではない。そなたが織田の娘であることを鼻にかけず、三上家の妻として誠実に仕えれば、必ず大切にしてくださるであろう」「父上がそこまで他人を信頼なさるとは、少々意外でございます」「儂とて、人を見る目くらいは持っておる。よいか、歩美。これは確かに政略による縁組だ。しかし、政略から始まった夫婦が、すべて
翌朝、嵐山の山々に朝の光が差し始めた頃、龍之介の屋敷へ御所からの使者が慌ただしく訪れた。「帝よりのお召しにございます。正装を整え、ただちに参内するようにとの御命令でございます」 帝から呼び出されること自体は、これまでにも何度かあった。龍之介は帝の話し相手を務めることがあり、宮中行事の際にも参内していたからである。 しかし、わざわざ正装を指定されることは珍しい。「承知した。支度が整い次第、ただちに参内するとお伝えくだされ」 使者へそう答えながら、龍之介には今回の呼び出しの理由が分かっていた。 昨日、本能寺で織田信長と交わした話が、早くも動き始めたのだろう。 龍之介は急いで身支度を整え、正装である束帯に身を包んだ。腰には、三上家に伝わる家宝の金太刀『金胴鳳凰宝相華文兵庫鎖太刀』を佩く。 鏡の前で装いを確認した龍之介は、屋敷の前に用意された牛車へ乗り込み、御所へ向かった。 車輪が軋む音を響かせながら、牛車は朝の京をゆっくりと進んでいく。すれ違う人々は三上家の家紋を目にすると、道の端へ寄って深々と頭を下げた。 やがて御所へ到着し、帝に拝謁するための広間へ向かうと、そこにはすでに大勢の公家が集まっていた。廊下では衣冠を整えた者たちが慌ただしく行き交い、誰もが突然の召集について小声で言葉を交わしている。 龍之介は権中納言という身分であり、本来ならば相応の位置へ着座することになる。しかし、これまでは余計な注目を避けるため、自ら進んで末席へ座ることが多かった。 ところが、この日に限っては着座する場所があらかじめ指定されていた。 案内されたのは、上座から二番目という極めて高い位置である。 龍之介がそこへ腰を下ろすと、周囲の公家たちは驚きを隠せなかった。何人もの者が、訝しげな視線をこちらへ向けている。「なぜ、三上の権中納言殿があの席に……」「帝の御子であるとはいえ、これまでは政治に関わらぬ世捨て人であったはずだ」 そんな囁き声が、広間のあちらこちらから聞こ
第十一話 初めての自宅屋敷 本能寺の変を未然に防ぎ、織田信長の娘との婚姻まで決まった龍之介は、ようやく帰路につくことにした。 これまで世捨て人のように暮らしていた龍之介も、ついに時代の大きな流れへと漕ぎ出したのである。 本能寺の外へ出ると、日はすっかり高く昇っていた。境内には初夏の明るい日差しが降り注ぎ、木々の青葉を鮮やかに照らしている。「中納言様、中納言様。しばし、お待ちください!」 門へ向かって歩いていた龍之介を、背後から呼び止める声がした。 振り返ると、森蘭丸がこちらへ駆け寄ってくるところだった。朝の光を受けたその姿は、やはり美しく、可愛らしい。龍之介は思わず、我が家の家臣に迎えたいものだと考えてしまった。「何ですかな、蘭丸殿」「嵐山のお屋敷まで、徒歩でお帰りになるおつもりですか?」 龍之介は本能寺へ来る際、明智光秀の軍勢から馬を借りていた。しかし、今はその馬もない。 本能寺から嵐山までは、徒歩で向かうには少々遠い。電車もなければ、バスもないこの時代、馬がなければ自らの足で歩くしかなかった。「御館様より、中納言様を屋敷までお送りするよう命じられております。馬を一頭、それから失礼ながら、腕に覚えのある者を二名、護衛として付けさせていただきます。どうか、お使いくださいませ」 そう言って蘭丸が示した先には、立派な馬と二人の武士が控えていた。 本来ならば、龍之介に護衛など必要ない。洛中ではその剣の腕前を知らぬ者は少なく、また、これまでは世捨て人同然の公家と思われていたため、命を狙われる理由もなかった。襲ってくる者がいるとすれば、事情を知らぬ物取りか強盗くらいであろう。 とはいえ、織田信長は祝言前とはいえ、すでに義父となる人物である。その厚意を無下に断る理由もない。「これはありがたい。安土様のお心遣い、謹んでお受けいたしましょう」 龍之介は丁寧に礼を述べ、馬と二人の護衛を借りて屋敷へ帰ることにした。 本能寺の門を出たところで、龍之介は周囲に目を配りながら静かに呼びかける。「影鷹はお
第十話 信長と龍之介 明智光秀が毛利攻めへ向かうために本能寺を出ると、謁見の間には織田信長と龍之介が残された。 信長は光秀が去っていった方へしばらく視線を向けていたが、やがて龍之介へ向き直った。「さて、中納言殿。儂は以前から、一度そなたと腹を割って話してみたいと思っておりました」「それは奇遇ですな。それがしも、安土様とは一度、ゆっくりお話をしてみたいと思っておりました」「では、茶室へ場所を移しましょう。蘭丸、茶室の支度はできておるか?」 信長が声をかけると、襖の外で控えていた森蘭丸が、間を置かずに返事をした。「はっ。すでに整っております」 蘭丸は、信長が龍之介と二人で話すために茶室へ移ることを予想し、謁見が始まる前から準備を進めていたらしい。 信長が細かな指示を出すより先に、その意図を読み取って動く。蘭丸が小姓として寵愛されているのは、容姿が美しいからだけではなく、主人の考えを先回りできる有能さを備えているからなのだろう。「中納言様、こちらでございます。茶室までご案内いたします」 龍之介は信長に続いて立ち上がると、蘭丸の案内で本能寺の庭へ出た。 庭園の一角に、周囲の景色へ溶け込むように小さな茶室が設けられていた。 建物そのものは質素で、華美な彫刻や金銀の飾りは見当たらない。しかし、庭の石や木々との釣り合いが見事に整えられ、窓からは季節の草花を借景として楽しめるよう工夫されている。限られた空間の中へ自然の美しさを取り込む造りには、武将としてだけでなく、文化人としても優れた感性を持つ信長の才能が表れていた。 龍之介と信長は、身体をかがめなければ通れない狭い躙り口から茶室へ入った。 室内に入ったのは二人だけであり、森蘭丸は外で待機している。わずかな物音にも対応できる位置にはいるが、二人の会話を邪魔することはなかった。 茶室の中には畳と土壁の落ち着いた香りが漂い、庭から聞こえる鳥の声と、時折風に揺れる葉の音だけが、静かな空間へ届いていた。 信長は龍之介の前へ座ると、自ら茶を点て始めた。
明智光秀が毛利攻めへ向かうために本能寺を出ると、謁見の間には織田信長と龍之介が残された。 信長は光秀が去っていった方へしばらく視線を向けていたが、やがて龍之介へ向き直った。「さて、中納言殿。儂は以前から、一度そなたと腹を割って話してみたいと思っておりました」「それは奇遇ですな。それがしも、安土様とは一度、ゆっくりお話をしてみたいと思っておりました」「では、茶室へ場所を移しましょう。蘭丸、茶室の支度はできておるか?」 信長が声をかけると、襖の外で控えていた森蘭丸が、間を置かずに返事をした。「はっ。すでに整っております」 蘭丸は、信長が龍之介と二人で話すために茶室へ移ることを予想し、謁見が始まる前から準備を進めていたらしい。 信長が細かな指示を出すより先に、その意図を読み取って動く。蘭丸が小姓として寵愛されているのは、容姿が美しいからだけではなく、主人の考えを先回りできる有能さを備えているからなのだろう。「中納言様、こちらでございます。茶室までご案内いたします」 龍之介は信長に続いて立ち上がると、蘭丸の案内で本能寺の庭へ出た。 庭園の一角に、周囲の景色へ溶け込むように小さな茶室が設けられていた。 建物そのものは質素で、華美な彫刻や金銀の飾りは見当たらない。しかし、庭の石や木々との釣り合いが見事に整えられ、窓からは季節の草花を借景として楽しめるよう工夫されている。限られた空間の中へ自然の美しさを取り込む造りには、武将としてだけでなく、文化人としても優れた感性を持つ信長の才能が表れていた。 龍之介と信長は、身体をかがめなければ通れない狭い躙り口から茶室へ入った。 室内に入ったのは二人だけであり、森蘭丸は外で待機している。わずかな物音にも対応できる位置にはいるが、二人の会話を邪魔することはなかった。 茶室の中には畳と土壁の落ち着いた香りが漂い、庭から聞こえる鳥の声と、時折風に揺れる葉の音だけが、静かな空間へ届いていた。 信長は龍之介の前へ座ると、自ら茶を点て始めた。 茶道具へ手を伸ばす所作には、一切の
歴史上、本能寺の変が起きた日の早朝。 もし、この日に本能寺の変が起こらず、織田信長が生き延びて天下統一を成し遂げていたならば、日本の未来はどのように変化していたのだろうか。 後世における世界の中心は、アメリカ合衆国ではなかったかもしれない。産業革命もイギリスではなく、日本から始まっていたかもしれない。 そのように評価されるほど、織田信長という人物には、歴史そのものを変える可能性があった。 本来であれば、その織田信長の命日となるはずだった朝、三上龍之介正圀と明智日向守光秀、そして光秀の配下数人は、本能寺の門前に立っていた。 龍之介たちは夜のうちに愛宕山を下り、まだ都が眠りから覚めきらない時刻に本能寺へ到着していた。周囲の家々は静まり返り、往来を行き交う人影もほとんどない。東の空がようやく白み始め、朝露を含んだ冷たい空気が、薄暗い京の町を満たしていた。 本能寺は一重の水堀と塀に囲まれており、寺というより、小さな砦と表現した方が似つかわしい造りになっている。 織田信長が京都へ滞在する際の宿泊所として使う施設であるため、敵の襲撃へ備えた最低限の防衛設備は整えられていた。しかし、本格的な城郭と比べれば、その守りが十分であるとは言い難い。 二条城という城があるのだから、そこへ宿泊すればよいものを、あえて本能寺を選んだことは、天下統一を目前に控えた信長の油断だったのかもしれない。 もっとも、史実では二条城も明智軍の別働隊によって攻め落とされている。そのため、本能寺の変は、織田信長を殺害するという一点においては、成功した謀反だったと考えてよいだろう。 しかし、今朝の本能寺へ明智光秀の大軍が押し寄せることはなかった。 光秀は信長を討つためではなく、腹の内を明かし、これまで抱えてきた誤解を解くために来ている。 謀反の意思がないことを示すため、光秀は愛宕山で身につけていた甲冑を脱ぎ、平服へ着替えていた。武将としての威厳は損なわず、それでいて主人へ拝謁する際に失礼とならないよう、身なりを丁寧に整えている。 光秀は一度だけ大きく息を吸うと、本能寺の門番